家康の一番有名な戦いといえば「関ヶ原の戦い」ですよね。
今回はそんな関ヶ原の戦いの解説動画をご紹介させて頂きます。
関ケ原の戦いはピックアップする人によって、様々な見え方ができる戦いです。
今回は全体を俯瞰して見た解説動画で、出来事ベースでお話頂いており、すごく解りやすい内容となっております。
動画
【新・関ヶ原の戦い】徳川家康の野心と石田三成最大の誤算とは!?【小学生でもわかる戦国時代】
動画の要約
※完全文字起こしではありません。詳細の確認をしたい場合はぜひYoutubeをご覧ください。
さあやっていきましょう小学生でもわかる日本シリーズついに来ました「関ヶ原を戦い」
これはね天下分け目の大きな大きな戦であったわけでございますけども
今回は最新の学説に基づいた関ヶ原の戦いの解説をしていきたいと思いますそれでは行きましょう。
関ヶ原の戦い前の家康と三成
さあ関ケ原の戦い徳川家康と石田三成がバトルして、たった1日で決着がついてしまった。
なんて言うね話は有名ですけども、いやいや確かに関ヶ原の戦いの本戦は1日で勝負は終わりました!
けれども、それまでに長い長いその下準備があってこその関ヶ原だったわけですね!
徳川家康の野心!徳川家康はこの関ケ原の戦いが起こる前から天下を狙っているのか。。。
いや別に天下は狙っていなかったけど結果的にそうなった。。。
など、いろいろ説が今までありましたが最新の学説では、家康には野心があったんじゃないの!?
という風に言われています。
家康はこの関ケ原の戦いの時点で約250万石というね相当な領地を持っていました。
これはすべての大名の中で第2位にいる毛利輝元の2倍の石高なんですね!
毛利家に対して2倍だからも圧倒的な勢力を誇っていたわけでございます
そんな中で、天下人だった秀吉は朝鮮出兵とかね色々そういうことを失敗が後に死んでしまい
そして秀吉の跡継ぎである秀頼はまだ幼いというね状況でございました。
そこで秀吉は家康に「秀頼のことを頼みますよ!世の中のこと頼みますよ!」
と託して死んでいったわけですが、、、
(家康は)秀吉が色々と決めていた豊臣政権下の約束をどどんどんどんどん無視して破っていきます!
例えば婚姻同盟ですね
自分の子供たちとかをどこどこに嫁がせたい、どこどこの大名から姫様をもらって結婚させる
とかそういうことをする場合はちゃんと豊臣家に報告して許可をもらわないとできなかったわけなんですが
それを全然無視しですね勝手にどんどんどんどん結婚を進めていった。
しかもそれはこの豊臣政権の中枢にいるような人たちではなく、中枢からは離れているけれども力を持っている伊達家だったり細川家とかそういうところでどんどん婚姻同盟を結んで家康は外の周りからまず固めていったわけですね。
そして宣教師とも仲良くし出すんですね。
それまで秀吉はバテレン追放令といって、ポルトガルとかねスペインからやってきていた宣教師たちを追放する、迫害するようなことをしていましたけども、家康は逆にそのスペインの人たちと貿易とかをして自分ところね領土に大砲度が鉄砲とか最新の武器を輸入するようなことしてるだけですね。
家康の天下人への障壁(前田利家)
そういうふうに着々と準備を進めていた家康ですけれども、たとえ250万国の大大名とはいえ大きな天下取りの障壁があるわけでございます。
それは加賀藩の前田利家ですね!
織田信長時代からずっと秀吉を共に戦ってきた盟友ですよね!
それから石高ランキング3位会津の上杉景勝!
このねふたりが特に(家康の天下取りに)やっかいだったわけですね。。。
2位の毛利輝元も確かに大きい大大名ではあるんですけども、家康の江戸からはだいぶ関東から離れていますので距離的に目下の障壁というのはこの前田利家と上杉景勝でございました。
しかし前田利家はですね秀吉の死後間もなくして病没してしまいました
その後を継いだ前田利長とね武将がいたんですが、この前田利長も決して無能ではなかったのですがさすがに家康には及ばずだったのです。
最初は家康を暗殺しようという計画をたてたなんていう話もありますが、結局それを叶うことなく自分のお母さんである「利家と松の松」でございます自分のお母さんの松を江戸に人質に出して家康に服従することを誓ってしまいます
家康の天下人への障壁(上杉景勝・直江状)
そして次の問題の上杉景勝です。
これ上杉景勝は上杉謙信の跡取りでございますけども、もともと越後いたんですが秀吉の命令によって会津に転封しておりました。
ここで上杉景勝は転封のついてですねどんどん武器とかを買い集めて軍備を増強していたんですね。
さらに上杉景勝は家康からの上洛命令というのがあったんですが正月に京に来て、みんなに挨拶しなさいよという命令があったんですが
「いやちょっとも忙しいんで今!」
といってそれを断ってとかしてたんですね。
これで家康とこの上杉景勝の間はかなり険悪なムードになっていきます
そんな中で出されたのが直江状でございます!
この上杉景勝の家臣である直江兼続、大河ドラマの主人公になりましたけれども、直江兼続がこの家康がこの秀吉の命令を無視して好き放題婚姻を色んなところで結んだりとか、勝手に貿易とかしている、などの行為に
「これは許せない行為だ!家康は明らかにこの豊臣政権に対して反逆をおこそうとしてる!絶対に許さん!」
っという挑戦状叩きつけるわけですね。
ただこの直江状に関しては今の研究の中ではですね
いや直江状なんてそもそもなかったんじゃないのという実在しない説もあるそうです
上杉景勝は家康に従うつもりだったけど家康としては、実績づくりが必要だと諸大名を率いて軍を率いてそして一つの大きい敵を倒す。
この実績づくりが必要だったからいいやさいろいろ難癖をつけて会津征伐を行ったんじゃないかという風にも言われていたりします。
直江状ってこんな有名なのに無いんですか!?あとから作られた作り話なんですかってね。。。
ですが直江状は今でもいやいや実在したよ!直江状という今は伝わっている全てではないけど直江状の原型になったものっていうのはあったよ!という説もあったりとかして未だに論争が続いているそうです。
面白いですね直江状はこんなに有名なのに、未だにね本当にあったかどうかわからないってねすごいですよね。
石田三成が動く
そこで家康が大阪から離れて本拠地は江戸に行きまして、そして会津の方に向かったというところで石田三成が挙兵します。
石田三成は豊臣家の中心でございますが、なんと石高はたったの19万石しかないんです。
家康に250万石に対してたったの19万石で大丈夫!?って感じなんですが石田三成に関しては秀吉からねもっと領地あげるよって言われてたんだけど、
「いえ私はね別にその領地がたくさん欲しいわけじゃないこ豊臣家のために尽くせればそれでいいんですよ!」
と断ったなんていう話もあって領土自体はすごく少なかったんですね。
なので石田三成は他の奉行たちや石高ランキング2位にいますね毛利輝元はそれから宇喜多秀家に声をかけてこのままでは豊臣家が危ない!奴を倒す!ということで味方を集めて西軍を組織したわけでございます。
そしてで石田三成その後あっさりやられちゃったんだなぁと思いきや結構ちゃんと戦っています。
伏見城の戦い
まず伏見城の戦いというのがあります。
この伏見城は家康の中心でございます。鳥居元忠という武将が持っていたんですが、ここ容赦なく責め立てですねあっという間に陥落させました。
家康は自分が会津の方に向かって行ったら確実に伏見城は攻撃されるだろうなと思っていたんですかね。
中心の鳥居元忠から会津征伐ね行く本体の兵を少しでも多くするために
「うちの守りはもう最低限で大丈夫です!」
と言ってですねかなり少ない兵数で守っていたという話もあります。
だから死ぬ覚悟で鳥居元忠はこの伏見城で西軍と戦ったわけですね。
そして確実に家康を潰すために真田昌幸にも手紙を送って、味方してくれとねいうことを言っているわけです。
この真田昌幸への手紙も結構面白い!
真田昌幸と三成
まずはですねこの手紙の中で真田昌幸に三成は謝罪をしているんですよね
三成って厚顔無恥というか、ちょっと偉そうなイメージありますけど昌幸に対して
「昌幸さんすいませんでしたこの前は・・・以前昌幸さんが大阪城にいらっしゃった時にあいさつしましたけどその時に家康を倒す!という決意を打ち明けられなくてすみませんでした。。。やっぱり大阪城はいろんな武将がいてどこで噂が広まるか分からないからちょっと。。。うかつにこういうことを言えなかったんですよ!でも今思えばあなたほどの豊臣家の忠節のある真田昌幸さんには事前にお話ししておくべきでした!本当にすいません」
という人間くさいですね手紙を送ってるんです。
その結果、真田昌幸は三成の気持ちに打たれて自分の長男の信之は家康の養女である小松姫と結婚してるにも関わらずこの犬伏の別れて、信之は家康(東軍)側に、そして自分(真田昌幸)と真田幸村ですね信繁とは西軍に別れたなんていう話も有名です。
そして三成は本格的に西軍を動かして家康を潰しにかかるわけです。
関ケ原の戦い(三成の誤算)
実は関ケ原の戦いは、最初はこの関ヶ原で戦おうということは三成は全く思っていなかったんです。
三成にはすごく大きな構想が実はありました。
結果的に西軍と東軍は関ヶ原の家で激闘としましたが実は、三成は最初尾張で決戦をしようと思っていたそうです。
尾張決戦っていうのね目論んでいたんですね。
っていうのも
岐阜城これはまさに中部地方の要でございますけどもあの織田信長もね入っていたお城でございます。
この岐阜城にいた織田信長の孫の織田秀信を味方につけることに成功したので岐阜城と尾張の清洲城を最前線の防衛ラインにして尾張で決戦をしようという風に考えていたそうです。
そしてその清洲城の城主だったのは福島正則です。
この福島正則も豊臣家の子飼いの武将ですから、秀吉に小さい頃から育ててもらって豊臣家に非常に恩のある武将だったので、三成は福島正則はきっとこの豊臣家を乗っ取って天下を取ろうとしている家康と戦うなら協力してくれるんじゃないか!?というふうに三成は思っていました。
そして必死に福島正則を説得していたんですが、、、福島正則は三成のことを大嫌いで有名な人ですよ!!
あの朝鮮出兵の時ね現場で一生懸命働いた俺達と、その後方でぬくぬくとねしていたお前たちと何がわからんだという大喧嘩したという話もありますけども、そんな福島正則を三成は実は信じていたんですよ!
「正則ならきっと俺らに味方してくれる!」
とそういうふうに思っていたんですが、、、福島正則は三成側ではなく家康の方についてしまいました。
これがね三成にとって大きな誤算だったわけでございます。
尾張で決戦しようと思っていたのにこの福島正則が東軍について、福島正則池田輝政浅野幸長いう有力な武将たちが、この織田秀信の守っていた岐阜城に襲いかかります。
この岐阜城の戦いも非常に激しいものとなったんですがこの池田輝政がもともとは、岐阜城の城主だったということもありこの岐阜城の弱点とか全て知り尽くしていたんでしょうね。
かなり岐阜城側はピンチに陥ります「やばいぞ!」とそこで石田三成は軍を率いてこの岐阜城の織田秀信の援軍に駆けつけるんですが、そこへ栗田長政藤堂高虎という歴戦の勇士の彼らが立ちふさがって石田三成の援軍は撤退することになってしまいます。
その結果、難攻不落といわれた岐阜城もたった1日で落とされてしまったんですね。
関ヶ原の戦い(大柿城)
これはまずいぞとまさか岐阜城がたった1日で落ちると
そこで三成は大柿城という西側にある城に入って、そこに西軍を集結させます。
「これはもうここで決戦するしかない!この大柿城で家康を迎え撃つぞ!」
と西軍の総大将として大坂城に入っていた毛利輝元に出陣要請を出しました。
そんな中、三成挙兵の知らせを聞いて会津から西に向かっていた家康が東軍の本陣に到着します。
この東軍の本陣も岐阜城の近くの岡山という場所に陣を張っていたみたいです。
ただ家康自身は本陣に到着したものの、東軍の本体を率いる家康の息子徳川秀忠の軍は真田昌幸の妨害に遭って遅刻してしまっています。
これは西軍にとって大チャンスだったわけですね!
東軍はもっとも兵数の多い本体がまだ到着していないという状態です。
そこで出てきたのが島左近です。
ここで一気に士気を高めて、家康と決戦をするぞということで杭瀬川というところで前哨戦を行います。
この杭瀬川の戦いでは島左近を率いる西軍が勝利しています。
東軍の武将が何人か討たれました。
そこで家康はこの大柿城へ軍を向けるのではなく、三成の本拠地である佐和山城ですね近江の佐和山城の方に向かって進軍することを決めます。
関ヶ原の戦い(関ケ原)
これは三成を誘い出すための作戦だったとも言われています。この誘いにまんまと三成や西軍が乗ってしまうんですね。。。
まじかとこの大柿城に攻めてきてここで決戦すると思いきや、大柿城を避けてで三成の本拠地の佐和山城向かってる!やばい!今すぐ出陣しろと言って慌てて西軍は関ヶ原に全軍を展開させました。
この兵数は東軍が7万5000、西軍は7万9000とも言われています。
兵数に関してはほぼ互角か西軍の方が少し多かった様です。
しかも布陣の仕方も東軍を囲むような鶴翼の陣で迎え撃ったというふうに言われてますので、布陣的には西軍の方が有利だと言われています。
まだまだ西軍には勝機があるという状態です。
その中、東軍の先鋒井伊直政と松平忠吉(家康の四男)、彼らが西軍の宇喜多秀家の隊に鉄砲撃ちかけて関ケ原の戦いが始まります。
最初はこの宇喜多秀家は持ちこたえて、一進一退の攻防を繰り広げておりました。
まだこの時点ではどちらが勝つか分からないという状況だったんですが、いかんせん西軍は動きがかなり悪かった。
西軍の有力な大名たち(島津・小早川・吉川)が全く動かないんです!!
実際のところ島津がなぜ動かなかったのかよくわからないんですが、石田三成と反りが合わなかったのかいろいろ揉めたらしいです。
作戦のやり方を島津はまずは夜襲をかけて奇襲を掛けようって言ったんだけど、三成がそんな卑怯なて使えるか
ていって却下したなんていう話もあったりします。
まあそういうのが実際どっからどこまで本当かはわかりませんが、島津はなぜか動きませんでした。
そして吉川広家です。
これも毛利の一族でございますけども、吉川広家はすでに東軍と通じていてもう寝返りますよということを言っていたので、ここでですね有名なのが空弁当です。
「今ちょっと弁当食ってるから」
という、本当は食ってないんだけど今弁当食ってるからちょっと動けませんという謎の言い訳をして、まったく動かなかった。
そして小早川秀秋、彼も非常に有名ですよね
関ケ原の戦いは小早川秀秋の裏切りで決まったなんていわれたりとかすることもあります。
この小早川秀秋は動かないどころかか完全に西軍を裏切って三成の盟友であった大谷吉継に急襲を仕掛け大谷吉継を討ち取ったりとかしています。
こうしたことによって完全にも西軍は散り散りになってしまい、たった1日で決着がついてしまったわけでございます。
そんな中ですねこの最初動かなかった島津はですね「島津の退き口」といわれる
これもねもう伝説的な撤退戦です!
普通に逃げるんじゃなくて相手の陣地突入してって突っ切るように撤退する!というもうイカれてる戦法をやったわけですね。
ただこの「島津の退き口」を行ったことで、「島津やばい!アイツらいかれてる!怖すぎる!」ということで東軍そして家康に圧倒的な島津の強さを見せつけたということをしています。
この後、三成は関ヶ原から命からがら逃げ出し潜伏して、いつか再起をはかってやろうとしていたんですが結局東軍の田中吉政見つかってしまい捕縛されてしまいます。
最後まで家康を倒すことを諦めなかった三成ですが残念ながらこの後斬首されてしまい天下は徳川家康のものとなっていくわけでございます。
もしも関ケ原の戦いで・・・
いやー本当にこの関ケ原の戦いもね面白いですね!
歴史にもしもはありませんがもし三成が福島正則のことを説得できていたら!
最初の尾張で決戦をするという構想を抱いていたのが実現していれば!
こんなあっさりと西軍が負けるということはなかったかも知れません。。。
そしてそう考えると意外と福島正則は関ヶ原の戦いにおける、すごく重大なキーマンだったんだなというふうに見えてきますよね。
この後この関ケ原の戦いを左右した福島正則は、徳川政権下であまり良い待遇を受けないんです。
あの改易されちゃったりしてますからいや本当に皮肉な話ですね。。。
もし正則が三成と仲良くやっていれば歴史は大きく変わっていたかもしれません。
本日の話はここまででございます