徳川家康の生涯を解説(後編)関ケ原から死まで

徳川家康の生涯を振り返る後編です。

後編は関ケ原の戦いから、家康の死までを紹介しています。
前編と後編を見れば家康の生涯がどんな生涯だったのか、大きなトピックスは網羅できます。

では、さっそくいってみましょう!

動画

【漫画】徳川家康の生涯を6分で簡単解説!(後編)【日本史マンガ動画】

動画の要約

※完全文字起こしではありません。詳細の確認をしたい場合はぜひYoutubeをご覧ください。

本能寺の変によって織田家は衰退。政治の主導権を握ったのは豊臣秀吉でした。
しかし秀吉がこの世を去ります。
この出来事は徳川家康に好機と試練をもたらすことになります。

秀吉が亡くなった後、家康が政治の中心を担うことになります。

家康「ついに来たわしの時代が!」
石田三成「徳川家康い奴は豊臣家にとって危険な存在だ!奴は必ず豊臣家の脅威となる」

豊臣家家臣の石田三成は家康に権力が集中しすぎることを危惧していました。
徳川家康と石田三成2人の対立は徐々に出激化していきます。

そんな中家康の元に一通の手紙が届きます。
上杉景勝の家老直江兼続からでした。

家康「直江あーあの愛の人か」
一、東国についそちらで噂が流れていて
内府様(家康のこと)が不審がっておられるのは残念なことです。
しかし京都伏見の間においても色々な問題が起こるのはやむをえないことです。
特に遠国の景勝は若輩者ですから噂が流れるのは当然であり問題にしていません。
内府様にはご安心されるよう色々と聞いてほしいものです・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・

手紙には家康に対する嫌味がたっぷりと綴られていました。
これがかの有名な「直江状」です。

家康「許すまじ上杉景勝そして直江兼続!!」
直江状により家康は会津征伐を決意!!家康は会津に向けて出陣します!

家康の留守をついて石田三成が挙兵。
三成と兼続は通じていたのです(※諸説あり)

今こそ好機徳川を叩く!石田三成挙兵の知らせを聞き家康ははすぐに全軍を引き返します。
そして関ヶ原現在の技研岐阜で両軍は衝突。

西暦1600年10月21日関ヶ原の戦い

天下分け目の戦いはわずか1日で勝敗が決します。敗北した石田三成は捕らえられて斬首されます。
徳川家康はより強大な権力を手に入れました。

1603年

家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。

家康「ついにあったこれで戦の世は終わる」

しかしこの体勢に反抗し続けている勢力がありました。
淀殿を中心とする豊臣家です
家康が征夷大将軍に就任してから10年経っても、豊臣家は徳川に下ることを拒否し続けていました。

淀殿「家康が消えれば天下は再び豊臣なものとなる」

1614年冬

徳川軍と豊臣軍はついに全面衝突!
戦国最後の戦いと言われる大坂の陣が始まります。

徳川軍は真田幸村を中心とする部隊に苦戦を強いられますが、大局は徳川優勢でした。
豊臣家は良家康の最後通告を拒否!交渉の余地はありませんでした。

1615年夏

徳川家康は豊臣家を滅ぼします。
家康は応仁の乱から100年以上も続いた戦国の世を終わらせます。

それから1年後
家康はこの世を去ります。(享年75歳)

先に行く後に残る同じこと連れて行けぬをわかれぞと思う
(辞世の句)

亡くなった後、家康は東照大権現として日光東照宮に祀られることになります
家康の築いた江戸幕府は250年以上も続きました。

今日の名言

「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し、急ぐべからず」

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