徳川家康のエピソード3選から学ぶ辛抱強さ

今回は徳川家康のエピソードがまとまっている動画をご紹介させて頂きます。

徳川家康を語る上で大切なポイントは大きく3つ

①家康の少年時代
②関ヶ原の戦い
③江戸のインフラ

この3つの内容について詳しくまとめて頂いているので、ぜひご確認ください。

動画

【徳川家康】260年続いた江戸時代の大将軍

動画の要約

※完全文字起こしではありません。詳細の確認をしたい場合はぜひYoutubeをご覧ください。

「負けてもいい最後に勝つのはワシじゃ」

今回紹介する歴史上の人物は徳川家康です。
徳川家康といったら260年続いた江戸時代を作った張本人です。
そんな徳川家康の有名なエピソードはこの3つ。

①家康の少年時代
②関ヶ原の戦い
③江戸のインフラ

この3つが何かを説明していきます。
これが理解出来ればあなたも明日から家康マスターです。

最後にそこから学べる教訓を話していきますので是非最後までご覧ください。
それでは、さっそくやっていきましょう。

①家康の少年時代

家康の少年時代は人質だった

徳川家康は1542年三河国岡崎の城主、松平広忠の長男として生まれました。
子供の時の名前は竹千代です。
家康はわずか6歳のときから織田信秀の下で人質として暮らします。
そしてその後は駿河国(現在の静岡県)の今川義元の下で人質として暮らします。

この戦国時代では敵対しないという証しとして人質にしたり娘を嫁にやったりすることは当たり前でした。
このように家康は幼い頃から人質生活ですから幸せな生活とまでは言えませんでした。
だからこそ家康の性格は
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」
こうやって言われるほど辛抱強い性格になったのかもしれません。

信長に協力するも・・・

1560年織田信長が今川義元を倒した桶狭間の戦いをきっかけに家康は今川家から故郷の三河の国に帰ることができました。
この時家康は19歳。その後、家康には優れた部下の助けもあり三河国いった一体を収め勢力を拡大していきます。
三方ヶ原の戦いでは武田信玄にボロ負けしますがそれ以外では戦で勝ち続けます。
というのも家康は基本的に織田信長に協力して戦ってたんですよね。信長と家康の同盟は清洲同盟と呼ばれていて最初は信長と同盟を結びますが後に信長に仕えることになります。

織田軍は最強でしたからその後も浅井、朝倉、そして一度は敗れた武田負に長篠の戦いで勝つことに成功します。
そしてここで大事件があります。
【本能寺の変】で明智光秀に信長が倒されてしまいます。

信長がなくなったと後継者になったのは家康ではなく豊臣秀吉でした。
この時、家康の後継者になりたかったんですが明智光秀を先に打ち取ったのは秀吉であり、それに伴って秀吉の力は大きくなっていました。

それでも家康は秀吉が天下を取ることに納得がいかず最初は豊臣と敵対し小牧長久手の戦いで秀吉と戦いますが家康はここで敗れてしまいます。

秀吉の天下の時の家康

その後、秀吉とは和解し秀吉に今度は支える形になります。
この秀吉に協力して関東を支配していた北條を倒し、功績をあげ続けます。

しかしこの頃から秀吉は家康の力を恐れだしてしまうんですよ。
秀吉「あいつかなり強いな謀反起こしたらまずい遠くにやっちゃえ」
ということで秀吉は家康に「三河の地を離れさせ関東を守れ」と命じます。

それに対し家康の部下の中には不満を訴える者がいたものの1590年潔く関東に移り江戸を拠点とします。
こう考えると後々天下を取る家康が江戸に飛ばされたから江戸時代が来て、関東がそれで中心になりますから、豊臣の影響で今の東京首都になっているのかもしれません。
ここから8年間は秀吉が天下を取るんですが豊臣がなくなった後、ついに家康は動き出します。

②関ヶ原の戦い

関ケ原の戦いから江戸幕府

1600年関ヶ原の戦いで豊臣家の武将・石田三成率いる西軍と家康率いる東軍が戦います。
この戦いは一進一退の戦いでしたが豊臣軍でありながら、徳川家に寝返った小早川秀秋の援軍もあり、家康はこの戦いに勝利します。

その後を豊臣秀吉の息子豊臣秀頼と戦います。
豊臣家にはあの真田幸村といった強い武将がいましたが「大坂冬の陣」そして「大坂夏の陣」でついに豊臣家を滅ぼします。

1603年江戸幕府を開き家康は征夷大将軍になります。
この征夷大将軍はまさしく幕府の長ですから、こうして家康は名実共に天下人になります。

そして家康が作った江戸幕府はその後260年間も続きます。

家康はとても健康志向でその後75歳まで生きましたから、当時としてはかなり長生きをしたことになります。

③江戸時代のインフラ

荒れ果てた江戸を開拓

もともと秀吉に命じられて江戸に住むことになった家康ですが、最初はひどい有様でした。
とにかく水浸しの地域で拠点となる江戸城でさえ荒れ果てていました。

家臣たちはまず城を修繕することを提案しますが、家康は城よりも家臣たちの住む場所を優先し地盤がしっかりした土地に家臣たちを住まわせます。

日本はじめての水道

次に問題だったのが飲み水です。
海が近い江戸は井戸では真水が出なくて飲めないため大問題でした。
そこで家康は家臣の大久保忠行に命じ、井の頭池から水路を作らせ日本ではじめての水道を作ったんです。

次に武士が生活するために商人や職人を増やす必要がありました。
「江戸は住みやすいよ」というイメージをアピールするために、医者など人の生活に欠かせない人を呼び寄せ安く住める住宅やトイレ銭湯などもたくさん作ります。

江戸の食

だんだん人口が増えて江戸独自の文化ができてきましたが、一番有名なのは「食」です。

江戸っ子と言えば寿司や天ぷらなど現代まで続く食文化がここでできたんです。
また家康が天下を取った後も日本各地の大名たちを江戸に呼び寄せます。

そしてなんと土木工事を大名たちに命じて本格的にインフラを整えます。
これを天下普請と言うんですがこれは家康への忠誠心と信頼を勝ち取るための土木工事であり、大名たちも命がけでその工事に取り組みました。

こうして急速に江戸の町は作られたんです。
つまり今の東京の土台になった江戸の町をつくたのがまさしく家康です。

徳川家康から学ぶ「辛抱強さ」

徳川家康から学ぶ教訓は【辛抱強さの大切さ】です。

家康は三方ヶ原の戦いでは武田信玄にフルボッコにされ、信長がなくなったと秀吉と戦った時も秀吉にフルボッコにされます。
しかし敗れても諦めないんです!!

本当は秀吉ではなく自分が天下を取りたかったのに、秀吉に仕える形で約10年間もチャンスを待つんです。

そして秀吉が天下だった10年間江戸という水浸しの土地に飛ばされても文句を言わず、コツコツインフラを整備してチャンスを待ち、秀吉が死んだ後ついに「チャンスが来た!!!」

そうやって関ヶ原の戦いで天下を取るんです。
家康は負けても諦めない辛抱強さがあったんです。

これはもしかしたら人質の時の経験が影響しているかも知れません。
あなたも人生で誰かに負けた経験あると思います。

負けるのって確かに嫌ですよね。。。めちゃくちゃ悔しいし時にはそこで諦めたくもなりますよね。。。
でも家康は負けても絶対あきらめないんですよ!
「負けてもいい最後に勝った人が勝ちなんだ!」
そんな根性が家康にはあったんです。

また家康は健康志向で75歳まで生きました。
もしかしたら長生きをすることで天下を取るチャンスを増やしていたのかもしれません。

負けるのは悔しいですが誰かに負けてもいいんです!
最後に勝てば!!

この家康マインドをぜひ覚えておきましょう。

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